ソニービルを設計する機会に恵まれて

創業時のソニービル1階エントランス

(1986年12月 <ソニービル20年史> The Story of Sony Building 1966-1986より)

ソニービルが誕生して、ちょうど20年になるという。当時をしのびながら、設計のいきさつなどにふれてみたい。

まず第一に、この土地が東京でも最も価値のある数寄屋橋交差点に接した角地であることであった。そこで、いかにもSONYらしい最新鋭のビルにしたいということであった。現在会長をしておられる盛田昭夫さんも我々も皆若く、どんなビルにしようかと、ホテル・オークラの一室で徹夜で、ディスカッションをしたことを思い出す。その結果、このように地価が高いところでは、どんな商品を売っても合わないから、ショールームにするのが一番よいというのが結論であった。

そんなことから、この「花ビラ方式」という上層階から床が90cmずつ下へと連続する空間が考えられた。あとで会津若松に「さざえ堂」というものがあるのを知って、江戸時代の知恵にびっくりした。そのほか、都市のビルとしての夜の景観も見ごたえのあることと、この空間が90cmずつずれていることを外観にも表現するため、反射光と透過光とを組み合わせた特殊断面のアルミ格子を考案して取り付けてある。したがって、夜見るとなんとも不思議な壁面の色合いが生まれ、反射光と透過光がミックスして見られる。また、ソニーはエレベーターコアの外側に2,300個のテレビ用ブラウン管をはめこみ、自由に画像をつくることに成功した。ただし、壁面の広告物の規則から、結局は単なる模様と「火の用心」ぐらいのサインしか出すことができないのが残念である。さらに、ソニーの大決断は、この高価な土地の一番大切な角を10坪ほど空けてよいということであった。その結果、各種のイベントがここで行われてきたことである。

ソニービルの花ビラ方式がわかる外観
テレビ用ブラウン管が埋め込まれた外壁

ヨーロッパの都市の歴史では、ルネッサンス期以来、都市が修景的につくられ、多くの美しい広場が現存している。わが国でも戦前は家の中に「床の間」という芸術的な空間があったが、ソニービルの素晴らしい企画が次々と行われ、横の銀座が縦になるといわれたほどであった。

最後に付け加えるならば、このビルの1階は、パネルヒーティングがしてあるということである。屋根のついたイタリアの広場のようなもので、人と人との出会いの場である。ここに用がなくとも夕方行ってみると面白い。大勢の若い男女が行っているのである。「ソニービルで会いましょう」これが、若者の合い言葉になってくれるようにという願いが、たぶん報いられたと思うのである。

このようなビルの設計の機会を与えてくださったことを、ソニーの皆様に心から感謝し、御礼の言葉としたい。

芦原 義信