なぜ、人は3部作を求めるのか

なぜ、人は3部作を求めるのか

3部作。

この響きには、言い知れない魅力がある。

3部作といわれると、そこには大きなメッセージが流れているように感じる。

デュオロジーは馴染まないけれど、トリロジーだとしっくりくる。

能には古くから伝わる3部構成、序破急もある。

三幕劇、三位一体(トリニティ)、三連画(トリプティック)。

どうやら「3」という数字にも秘密がありそうだ。

奇しくも、この夏、Sony Park Miniでは

「キャッチボール」「アイスクリーム」「お化け屋敷」

という3つのプログラム、"夏の3部作"を開催する。

なぜ、人は3部作を求めるのか。

どうして2や4ではなく、「3」なのか。

その裏側にある文化的な背景とは——。

文筆家の山本貴光とライターの速水健朗が、

古今東西の芸術、エンタメ、哲学から、知られざる「3部作」の秘密に迫る。

速水 健朗(はやみず・けんろう)

ライター・編集者。Podcast番組『これはニュースではない』パーソナリティ。1973年生まれ。コンピュータ誌編集者を経て、2001年よりフリーランスのライター・編集者として活動を開始。著書に『東京どこに住む? 住所格差と人生格差』(朝日新書、2016年)、『ラーメンと愛国』(講談社現代新書、2011年)など。2023年7月に新著『1973年に生まれて 団塊ジュニア世代の半世紀』(東京書籍、2023年)を上梓。

山本 貴光(やまもと・たかみつ)

文筆家、ゲーム作家。東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。1971年生まれ。コーエー(現コーエーテクモゲームス)にてゲーム制作に携わり、在職中から執筆活動を開始。1997年より吉川浩満と「哲学の劇場」を主宰。著書に『記憶のデザイン』(筑摩書房、2020年)、『心脳問題』(吉川浩満と共著、朝日出版社、2004年)など多数。2023年6月に新設されたメディア『DISTANCE.media』ではエディトリアルボードを務める。

1.続編を作るなら、いっそ3作目まで

山本:

自分の経験を振り返ってみると、はじめて触れた3部作は『スター・ウォーズ』だったと思います。テレビで放送していたのを後追いで観たんだったかな。

速水:

僕は2作目の「帝国の逆襲」から観た気がする。「ジェダイの帰還」に続く前提で作られているので、終わり方がかなり唐突で(笑)。映画ってこんなにスパッと終わっていいの?ってびっくりした記憶がある。学生時代に観ているのもあって、いまだに『スター・ウォーズ』といえば"3部作"のイメージが強いですね。"プリクエル(新3部作)"を観たのは大人になってからだった。

山本:

3部作で完結しているつもりでいたら、後から「本当は9エピソードあるうちのエピソード4-6だった」と発表されたりして(笑)。『インディ・ジョーンズ』も3作で一旦終わったはずなんだけど、その後4作目ができ、今5作目が公開されている。映画の場合、後になって続編が足されていくケースは少なくないですね。

速水:

最初の3作だけでよかったんじゃない?と思うシリーズも多々ある(笑)。だけど、映画は脚本家や監督の意向だけでは決められないから難しいですよね。

山本:

『バック・トゥ・ザ・フューチャー』は見事な3部作だと思うんだけど、監督のロバート・ゼメキスも脚本家のボブ・ゲイルも、もとは1作で完結の予定だったらしいですね。しかも続編が撮られることになった経緯がなかなかおもしろくて。1作目のラストに「To Be Continued」の文字が出るんだけど、実はそれ、劇場公開時には入っていなかったのをビデオになるときに付け加えられたもので、それを観た主演のマイケル・J・フォックスがびっくりしたという……。しかもその言葉自体も、続編の制作が決定しているという意味ではなく、主人公の人生は続く的なニュアンスだったみたい(笑)。どこまで本当かは分からないけど、それで結局、ファンからも続編を待望する声が殺到して、2・3作目が作られたらしい。

速水:

そうなんだ! それにしては見事な構成ですよね。30年前の過去に戻ったり、30年後の未来に行ったり。

山本:

そうそう。てっきり計算し尽くして3部構成にしているものだと思っていたんだけどね。

速水:

ヒットするかわからない状態で、「いきなり3部作をやります、しかもオリジナルで」というのは当然無理なわけですよね。企画が通るわけない(笑)。だから映画の場合は、1作目がヒットし続編を作るという段になって、「どうせ作るなら3部作に」という具合に決まるんでしょうね。

2.SFはトリロジーがお好き?

山本:

小説の3部作ですぐに思い浮かぶのは、アイザック・アシモフの"銀河帝国興亡史3部作"。いわゆる"ファウンデーション・シリーズ"ですね。1951年から53年に刊行された3作で一旦完結するんだけど、30年ほど後になってファンや編集者からの要望に応えるかたちで4作目が書かれる。アシモフはあまり乗り気じゃなかったみたい。結局7作目まで続き、その後アシモフが亡くなってからも、別の作家たちによってさらに書き継がれていったんですけど……。小説にかぎらないかもしれませんが、SFには3部作が多いかもしれないですね。

速水:

たしかに。

山本:

最近では劉慈欣の『三体』も3部作です。しかも、この小説は内容的にも「3」を扱っている。タイトルの由来になっている「三体問題(three-body problem)」というのは、物理学の未解決問題のことでした。たとえば、天体の動きを説明するとき、地球と太陽のように2つの天体の関係であれば、ケプラーの法則で予測できるんだけど、そこに月が加わって3つになると、途端に計算が複雑になるんですね。

速水:

3がなぜマジックナンバーと言われるのか、すごい腑に落ちた。3つあると関係性が複雑になるんだ。

山本:

そう。2体までは比較的わかりやすくて計算できる。それが3体になった途端に、複雑系になる。いまならスーパーコンピュータで無理やり計算して、近似的に解を出すことはできるけど、「こうなるはずですよ」と記述する方程式はいまだに見つかってない。3という数字は、関係性や物語が複雑になる分岐点のかもしれませんね。

3.「3部作」と「シリーズ」の違い

速水:

「3部作」と「シリーズ(続編)もの」は厳密に言うと、似て非なるものだと思うんです。シリーズは登場人物が共通していて、物語が続いていくけど、「3部作」と呼ばれるものはそうでないものが多かったりもする。"尾道3部作"はその好例です。監督が大林宣彦で、舞台が尾道であることをのぞけば、原作者も登場人物も全然違う。夏目漱石の"前期3部作"と"後期3部作"も同様に、どれも別の物語なんですよね。

山本:

漱石の3部作は「訳ありの若い夫婦がいる」という同じような設定から出発して、それぞれの作品でまったく違う結末にたどり着くのが特徴ですよね。

速水:

『こころ』と『それから』はどちらも読んだはずだけど、どっちがどっちだか当てろと言われても無理だな。漱石でいえば、ふたつの3部作を5、6年のあいだに書いているのもすごい。

山本:

漱石は本当に筆が速い。小説家としての活動期間自体、トータルでも10年くらいしか幅がなくて濃密なんですよね。新聞での連載小説もあった。

速水:

当時の読者は新作を追いかけるの大変だったろうなぁ。3部作の話に戻すと、僕らは続編じゃないものを、テーマで括って「3部作」と呼んだりもする。そこには「編集の余地」というか、作り手の外側に開かれている部分がある。

山本:

勝手にまとめちゃうんだよね。スティーブン・セガールが出ている映画のタイトル全部に「沈黙」をつけるみたいに……いや、ちょっと違うか(笑)。

速水:

まとめるときに、2作では物足りないし、4作だと長すぎる。そうなるとやっぱり、トリニティじゃないけど、3作くらいが構成上まとまりがいいのかもしれないですね。

4.哲学は3が好き

山本:

作劇でなぜ3幕ものが重宝されるかを考えると、古くは古代ギリシャまでさかのぼれます。悲劇を上演する際、3部作でやっていたとか。それと哲学者のアリストテレスに『詩学』という本がありますが、これは悲劇論で、今でいうところのストーリー論なんですね。このなかで、物語は「始まり」「中盤」「結末」の3ブロックで構成されているとアリストテレスは書いています。

速水:

すごいことを言っているような、当たり前のような(笑)。一休さんみたい。

山本:

そうそう(笑)。他の著作でも、アリストテレスはなにかと「3」という数字について記している。たとえば『天について』という宇宙論では、「何事も3つの要素でできてる」とかね。空間なら、1は「線」で、2で「面」になり、3でようやく「物体」(私たちがいうところの「立体」)になる。それ以上は存在しないから、3が完全な数だと。そういう理屈です。
それから人間は神様を「三神」と言ってセットにするでしょうとか、ギリシャ語で1は「ひとり」、2は「両方」を意味するけど、3までくると「全員」という言い方するでしょうとか、いろんな事例を引きながら、3が完全な数であることを示そうとしています。どうやら古代ギリシャで3は「完全な数」として尊ばれていたみたい。

速水:

ソロやデュオがあるけど、3人以上はメンバーがいくら増えても「バンド」みたいな?

山本:

あ、ほんとだ!(笑) 普段私たちがコンピュータやゲームで目にしている3D表現も、実は「3」をベースに作られています。3Dグラフィックは「ポリゴン」という三角形が最小単位で、どんな立体もその三角形を組み合わせることによって表現しているのでした。四角形ではなくて。

速水:

アリストテレスの予言が的中したかのような世界になってる(笑)。

山本:

ね。哲学ではどうもいろんなところに3が顔を出す。カントは真善美という古来の哲学における三大テーマを3冊の著作にまとめているし、ヘーゲルの「弁証法」にしても、思考や物事の発展を3段階でとらえて定式化したものでした。一方に「テーゼ(正命題)」が、他方にそれを否定する「アンチテーゼ(反命題)」があり、その相反する両者をより高次の概念で統合した「ジンテーゼ(合命題)」が生まれる。このジンテーゼに至ってはじめて、新しい発見やアイデアが生まれる。そういう論理構造。なんだか哲学は3が好きなんですよね。

5.音楽を支える「スリーコード」

山本:

音楽方面でも3部作はいろいろありそうですが、私がぱっと連想したのはマハラージャンでした。彼はみずから"心の傷3部作"と銘打って昨年、3曲を連続リリースしました。3作で共通の人物が出てくるわけでもなさそうなので、テーマで束ねられた3部作ですね。とはいえ、3作目の「持たざる者」になると、ジェイソン村田という人物が出てきて、「どこが"心の傷"なんだろう?」とわからなくなってくるんだけど(笑)。ジェイソン村田はタイトルどおり何も持ってない。でも、手違いでスイートルームに泊まれたり、飛んできた虫が新種だったりと、とにかく強運の持ち主なんです。

速水:

どういう音楽か、まったく想像がつかない(笑)。

山本:

説明してる私もわからない(笑)。めちゃくちゃダンサブルなんですよ。洗練に洗練を重ねた21世紀版のコミックソングというか。最近は頭の中でずっと「持たざる者」が流れ続けてます。

速水:

そういえば、歌手のザ・ウィークエンドもなにかと3部作を作りがちです。フリー時代のミックステープ3枚をまとめた『Trilogy』というコンピレーションアルバムもあるし、今もまさに現在進行形で3部作を制作しています。1作目が『After Hours』で、2作目が昨年出た『Dawn FM』。『Dawn FM』は「死後の世界の歌が聞こえてくるラジオ」というコンセプトアルバムなんだけど、歌詞のなかで何度も死後の世界に入ることが語られているから、ファンのあいだで、どうせ最後は『Afterlife(あの世)』でしょう?と先読みされ出して。あまりにも頻繁に言われるもんだから、ザ・ウィークエンド本人も気を悪くして、「ファンが予想しているアルバム名の曲はあるけど、アルバム名ではない」って否定してました(笑)。

山本:

それはもう、「違う」と言うしかない(笑)。

速水:

「絶対こうだ」と予想されると、クリエイターとしては否定せざるを得ない。新劇場版の『エヴァンゲリオン』を作っていたときの庵野秀明もそんな状況だったかもしれないですね。どんどん難解なほうに舵を切るほかなく、終わらせるのがさらに難しくなっていく……。

山本:

音楽で「3」というと、ブルースの曲は基本的にスリーコードで構成されていますよね。12小節を3つのコードで4小節ずつ展開していく。

速水:

ブルースは詞も三行詩で書かれていますよね。

山本:

そうそう。大雑把にいえばブルースを速くしたのがロックンロールだし、そのロックンロールの影響を受けて日本のポップスが生まれたことを考えれば、今私たちが日常的に聴いている音楽の根底にも、3があるのかも。

6.この世は「3」でできている?

山本:

キリスト教にとって「3」は大事な数字なのですが、実はこの3好きは決してヨーロッパにかぎったことではないようです。古代中国も3が大好きみたい。たとえば漢字の「三」は道教の思想を反映している。どういうことかというと、古代中国の宇宙論は、混沌から天と地ができて、そのあいだに人間や動植物がいるという世界観なんですが、その万物は「天」「地」「人」の3要素から成る。この宇宙論が、そのまま漢字の「三」で表現されているわけです。上の横棒は「天」を、下の2本は「地」をそれぞれ指していて、この3本が合わさると「タオ=道」になるとか。

速水:

キリスト教の「三位一体」は、日本人の僕としては正直あまりピンとこないけど、「天地人」は馴染みがありますね。

山本:

この「天地人」は「三才」ともいって、中国の古い類書という、今でいう百科事典風の本とか、それをお手本にした江戸時代の日本のものを見ると、この3カテゴリーであらゆる物事を分類している。寺島良安の『和漢三才図会』はよく知られている例かもしれません。キリスト教と出どころこそ違えど、宇宙を3つの要素で捉えるわけですね。
じゃあ、日本はどうかと思って見てみると「序破急」がある。庵野秀明が新劇場版『エヴァンゲリオン』で採用して有名になった三幕構成ですね。「序」は準備期間で、「破」でそこに潜む変なものが出現し、「急」で始末をつける。世阿弥が能の作劇法として論じたものが有名だけど、アリストテレスの「物語は始まりと中盤と結末から成る」にも通じますね。

7.スリー、ザッツ・ザ・マジック・ナンバー

速水:

数年前に完結したトム・ホランド主演の『スパイダーマン』も「ホーム3部作」で一旦閉じています。特に3作目の『ノー・ウェイ・ホーム』は「3」にこだわった作品で「3人」であることが大事。あとエンディングで流れるのがデ・ラ・ソウルの「The Magic Number」でした。まさに「スリー・イズ・マジックナンバー」っていうリリックです。名盤とされるファーストアルバム『スリー・フィート・ハイ・アンド・ライジング』に収録されているんだけど、権利の関係上、今年に入るまでサブスクリプションで聴けないアルバムだったこと、彼らが3人組であったこと、いろいろ含めて鳥肌が立つ内容でした。このエンドロールの瞬間に物語の余韻が全部とんでしまうくらい(笑)。

山本:

すごい!(笑)欧米だと、3は「聖なる数字」とも言われたりしますね。それこそ、長らく3部作とされていた『マトリックス』の主要人物にトリニティというキャラがいました。トリニティというのはフラットには「三つ揃い」のことですが、キリスト教の文脈では「三位一体」といって重要な教義を指している。神のあり方をどう考えるかという問題に対して、唯一の神は「父」「子」「聖霊」という3つの姿となってあらわれ、かつその実体はひとつである、と考えるわけです。中世に入ってもキリスト教徒にとって、「3」はやはり重要な数字とされていて、14世紀に修道院の学者が書いた本でも、3部作で残ったりしているんですよ。

速水:

3部作ってその時代からあるんだ!

山本:

そういえば、これも14世紀頃に書かれた詩人ダンテの『神曲』も地獄篇、煉獄篇、天国篇の3部作ですよね。しかも凝り性のダンテにいたっては、各パートを33篇で構成している(笑)。冒頭に全体の構造を説明する1篇が付いているから、正しくは1+33+33+33なんだけど。

速水:

几帳面だ(笑)。今僕らが文章を書こうとすると、Twitterにしろブログにしろ、思いついたものをバーっと書きがちだけど、当時の人たちはそういうフォーマットありきで文章を書いていたんでしょうね。

山本:

キリスト教はやたらと3推しかも。祭壇画にしても、聖書の物語を3つの場面で構成する「三連画(トリプティカ)」が形式化されていたり。

速水:

キリストが生まれたときにやってくるのも「東方の三博士」だ! 今更だけど、3部作の「3」にはちゃんと理由があったんですね。

8.終わらせることの美学

速水:

小説の3部作で忘れちゃいけないのが、"十兵衛3部作"。

山本:

名作!

速水:

著者の山田風太郎は、いわゆる日本における戦後の娯楽小説の基礎を作ったベストセラー作家で、他にも人気シリーズはたくさんあって、今から見ればラノベの草分け的存在とも言えるかもしれないですね。トリロジー1作目の『柳生忍法帖』は、実在した歴史上の人物たちをモデルにした時代小説で、ここで登場した剣豪・柳生十兵衛が人気を博し、風太郎自身も気に入って、続編が書かれていった。
『柳生忍法帖』は1964年、2作目の『魔界転生』がその3年後に書かれています。ここまでは短いスパンで刊行されていたのに、3作目『柳生十兵衛死す』が書かれるのはその25年後、風太郎が70歳になってからなんですよ。しかも、それが遺作になった。晩年に人生の締めくくりとして、3部作の完結篇を書いたんです。

山本:

そういう時間をおいた続編って、映画でもバンドの再結成でも、お金というか「大人の事情」が動機になりがちだと思うけど、みずから幕を下ろすのが潔いですね。そういう意味では、完成された3部作。

速水:

四半世紀も経てば、作家自身は成長するし、興味関心も変わりますよね。実際、風太郎はその間、まったく別テーマの作品もたくさん書いていて。だから『柳生十兵衛死す』は、前2作とは違う、人生味の詰まった作風になっている(笑)。とはいえ、そこも風太郎なのでタイムリープを連発させるという現代的な要素もかなりある。いくつも傑作がある作家だけど、この十兵衛3部作を読めば、山田風太郎の人生が見えてくると思います。

9.3作で終われない現代人(わたしたち)

速水:

みんな、村上春樹の初期3部作のことを"鼠3部作"って呼ぶじゃないですか。でも『ダンス・ダンス・ダンス』も同じ主人公だから、4部作が正しいんじゃないの?って、いつも不思議なんですよ。鼠が死んでいるからなのか、「3部作+1」という分け方になる。だけど作家論として考えると、収まりがいい3部作で完結させずに、書き足りないと思ったら4作目までいってしまうのが春樹らしいですよね。まだ書き足りなかったんだ、って。

山本:

たしかに、なんだか3で区切りたがりますよね。近年はより顕著ですが、産業の要請や構造を理由に3部作では終われない作品も出てきているように思います。ゲームはその典型で、かつてのパソコンゲームや家庭用ゲーム機だと、1本ごとに終わりがあったけど、モバイルゲームになるとエンドレスでアップデートしていくわけですよね。プレイヤーにどんどん課金させるために「終わらないゲーム」が増えてきましたね。ゲームをつくる側でも「さすがにどこかで終わらせてプレイヤーを日常に帰す必要もあるのでは」という議論があったりします。今私たちはもう一度、終わらせる技術を取り戻さないといけない時期に来ているのかもしれない。

速水:

現代は昔よりも物事を終わらせることが難しくなっている。3作目がちょうど分かれ道になっているのかもしれないですね。2作目は1作目の革新性をグレードアップすればいいけど、3作目ではどう決着をつけるかが問われるわけで。きっとある種の潔さが必要なんでしょうね。

山本:

始末をつけられずにダラダラと続けちゃうか、きちっと物語を畳むか。その分岐点が3作目なのかもしれないですね。